Photo 365 MAGAZINE & DIGITAL PHOTO LABOS
2004.08.02
vol. 7
写真を仕事にしたい人、写真家になりたい人はもちろん、
写真に興味のある人なら誰でも楽しめるメールマガジンです。
画像などが表示されない場合
こんにちは。
雷鳥社「Photo365MAGAZINE&DIGITAL PHOTO LABO」エディターのオオネダです。
写真を撮ること、観ることが好きな人にお届けしているこのメールマガジン。
第一線で活躍する写真家のインタビュー、写真の撮り方のワンポイントレッスンという二つの柱でお届けしています。
今週から、週刊誌『AERA』の表紙撮影でおなじみの、坂田栄一郎さんに迫ります。本格的なインタビューは9年ぶりとのこと。坂田さんの魅力を5週にわたりたっぷりとお伝えします。

Photo365
MAGAZINES

メールアドレスの
登録・解除・変更

私が写真を撮るワケ
自然と人間の共生を写真で伝えたい。写真家・坂田栄一郎インタビューVol.1
肖像写真の巨匠リチャード・アベドンに師事後、初個展「Just Wait」にて写真界にセンセーショナルを巻き起こしデビューした坂田栄一郎さん。被写体とカメラマンが対峙しながら作品を創り上げる「フォトセッション」にこだわり持ち、環境問題にも関心を抱き続けている。1995年に開催された個展「amaranth」から実に9年ぶりに開催される展示会を1ヵ月後に控え、坂田さんの写真への思いを様々な角度から迫っていく「私が写真を撮る理由」。5回にわたるロングインタビューの第1回目は、写真との出会い、リチャード・アベドンとのかかわりについて語っていただいた。
■ Profile ■
坂田栄一郎(さかたえいいちろう)
1941年東京生まれ。1965年、日本大学芸術学部写真学科卒業後、1966年に渡米。ニューヨークで写真家リチャード・アベドンに師事。1970年、個展『Just Wait』でデビュー。1971年に帰国後、CM、雑誌などを中心に活躍。一方で、週刊誌『AERA』の表紙は、1988年創刊以来担当。撮影した人数は850人を超える。また、1993年には世界でもっとも有名な写真の祭典である「アルル国際写真フェスティバル」に招待され、「アルル名誉市民賞」を受賞。写真集に、『注文のおおい写真館』(流行通信社・1985年)、『Talking Faces』(六耀社・1990年)、『amaranth』(1995年・朝日新聞社)がある。
(C)坂田栄一郎
「PIERCING THE SKY―天を射る」坂田栄一郎展
静謐なモノクロの「人物」と色鮮やかな「自然」が対峙するように表現した、未発表作品約100点を展示。
会期:2004年9月4日〜10月11日
お問い合わせ:東京都写真美術館(TEL:03-3280-0099)
詳細はこちら

エンツォ・クッキ(画家)(C)坂田栄一郎

「PIERCING THE SKY―天を射る」
7年の歳月をかけて撮りおろされた人と自然の姿に、太古から交わし合ってきた生命の息吹が見える。悲劇的な世界を救う力はどこにあるのか、現代社会で我々に問われていることは何か?警鐘と深い人間愛に満ちた一冊。デザイン・井上嗣也、寄稿文・丸山健二といった豪華ラインナップ。
求龍堂(9月4日の東京都写真美術館の展覧会に合わせ刊行)/価格未定

※1
リチャード・アベドン(Richard Avedon)
1923年ニューヨーク生まれ。現在もニューヨークにスタジオを構え、現役の写真家として活動している。1940年代前半に当時の『ハーパース・バザー』誌のアートディレクター主催のデザインラボラトリーで写真を学び、その後、1946〜1965年まで『ハーパース・バザー』誌のスタッフ写真家として活躍。ドキュメンタリー、コラージュやポートレートの手法を取り入れた革新的なファッション写真で一世を風靡した。1966〜1988年まで『ヴォーグ』誌、1992年からはニューヨーカー誌初のスタッフ写真家として現在も活躍中。最近では、宇多田ヒカルのCDジャケットの写真を撮影したことで日本でもよく知られている

※2ユージン・スミス(Wiliam Eugene Smith)
1918年生まれ。母方の祖母がアメリカインディアンのポタワトミ族でインディアンの血筋もひく。『ライフ』誌を中心に活躍。太平洋戦争に従軍、沖縄戦で砲弾があたり負傷、生涯その後遺症に悩まされる。戦後、人間の生き方、その生活の表情に惹かれ、フォト・エッセイというシリーズでそれに取り組む。1961年、日立のPR写真撮影のため来日。日本に対する関心が深まり、その後、水俣のチッソの水銀汚染問題で、胎児性水俣病の患者たちを撮り続け、世界に水俣病の悲劇を知らせた

近所のDP屋さんに洗脳されちゃったんだよね
「写真なんて大学に入るまでは撮ったこともなかったし、カメラに触ったこともなかったんだよ」

「写真を始めたきっかけから聞かせて下さい」という質問に対して、とても気さくで自然な雰囲気を持った坂田さんらしい第一声だった。

高校時代は写真家になろうとか、デザイナーになろうといった目的はまったくなく、ただ漠然と普通の4年制の大学に入るという目的しかなかったという。ただ、サラリーマンになって普通に会社勤めをするのは嫌だなという思いで何かを模索していた。

「人生は本当に出会いの連続だよね。人との出会いを重ねていくうちに、人との対し方や感じ方を身につけていくわけですよ」

そう言って坂田さんが写真人生を歩みだすきっかけとなった最初の出会いから話してくれた。

「18歳のころ、家の近所のDP屋さんの主人と親しくなったの。その人に写真を見せてもらっているうちに、『写真って面白いんだなぁ』と思うようになったの。洗脳されちゃったんだよね。それで『写真をやってみようかな』って思ったの」

当時大学受験のために浪人していた坂田さんは、日大の芸術学部写真学科を受験し、見事に合格した。写真学科に入学すると、まわりの生徒は当然ニコンやキャノンなどの上級者向けのカメラを持っており、学生のほとんどが小学生や中学生のころから写真を撮っている人ばかりだった。

「僕なんか入学したときはカメラも持っていなくて、半年くらいは人から借りて撮っていたよ。僕の場合は写真が本当に好きだっていうところまでいってなかったんだろうな。とにかくDP屋さんに洗脳されちゃってなんとなく面白いな〜という程度だったからね」

大学に入学するまでは、DP屋さんの撮った風景や人物の写真を見ていただけで、プロのカメラマンの写真を見て影響を受けたようなことはなかったという。

「やっぱり写真家になろうという自覚がなかったんだと思うよ。漠然としていたからね。写真で食べていこうなんて思ってもいなかった。でもやっているうちにだんだん面白くなってきて、それで報道写真家を目指したわけですよ」
日本から脱出したい!
高校時代から硬派で空手部に所属していた坂田さんは、大学に入るとすぐにまた空手部に入部。しかし大学2年生の時、「空手か写真かちゃんとひとつにした方がいいんじゃないか」と、現在もカメラマンとして活動している須長先輩に言われて、それで「じゃあ写真をやろうかな」ということで写真を選ぶことになった。

須長先輩は後輩である坂田さんをとてもかわいがってくれていたようで、空手部をやめて写真に真剣に取り組むようになってからは、山谷をはじめ、いろいろな街を連れて歩いてくれたそうだ。当時の山谷といえば高度成長期の真っ只中、新しい街を建設するために全国各地から労働者が集まっている活気に満ちあふれた場所だった。写真を撮るということにも格好の街だったことを、先輩はわかっていたのかもしれない。でも、当の坂田さん自身は何かテーマを持って写真を撮っていたわけではないそうだ。

大学3年生になると博報堂で撮影アシスタントのアルバイトを始めた。また知人の紹介で「晃和ディスプレー」という会社でもアルバイトを並行していた。そこの社長さんが、後にアメリカへ飛び立つきっかけを与えてくれた人物であり、DP屋さん、先輩に続いて第3番目の大きな出会いとなる。

「社長から『お前は日本なんかにいないでどこか外国へ行け!』って言われたの。行けと言われてもお金もないし、そんな簡単には行けないんだけど。でも大学3年の時には、何かこう日本から脱出したいという気持ちがあった。日本という閉鎖された社会にいて、その中で自分が閉じこもっているのが嫌だなって感じがしたの。とにかくまずは外国に行きたいという思いが芽生えていたのかもしれない。プロカメラマンになりたいというよりも、外国に行きたいという思いの方が強かったね」

外国に行くにも、ただ手ぶらで飛び出したところで待っているのは「皿洗い」のような仕事ばかり。どうせ行くならすぐに写真の世界入って、いつでも写真に触れていられる方がいい。そこでまずは技術を身につけようと、大学卒業後ライトパブリシティにアルバイトとして入ることになった。

「そうしたらライトパブリシティに在籍中にリチャード・アベドン(※1)が来日したわけよ。だから本当に運がいいんだよね」

1965年、雑誌『ヴォーグ』の撮影のためにリチャード・アベドンが来日した。日本での滞在期間は3週間。日本全国津々浦々を廻るにあたって、その間アベドンの撮影アシスタントを募集していた。
根性と執念を見せ付けた。そしてアベドンは……
「アベドンの助手につくにあたっては簡単な面接があったの。当時英語はそんなにしゃべれなかった。話す分には暗記していけばいいけど、何か聞かれたらもうどうしようもないよね。でもとにかく、自分がこうしたいという意志を相手に伝えなきゃいけないから、言いたいことは全部暗記して次から次へと全部話したよ。そしたら最後に『あなたはどこに住んでいるんだ?』って聞かれたの。『あ〜住所か〜。これなら助かった〜』って思ったね。それで自分の住所をスラスラっと英語で答えて合格したの」

「3週間が過ぎていよいよアベドンが帰るというときに、『あなたの作品は私の心の奥の琴線にふれ、あなたを尊敬してやまない。トイレ掃除でもなんでもいいからあなたの元で働かせて下さい』って言ったの。その時はそのまま帰国したけど、6ヵ月後にアベドン本人から手紙がきたんだよ」

アベドンといえば世界的に有名なカメラマンで、しかも売れっ子中の売れっ子である。1960年当時、彼のアシスタントになりたいという若者は後を絶たなかったはずだ。そんな中でアベドン自ら手紙を送ってくるほど彼に印象付けたものはいったい何だったのだろうか。

「根性を見せつけたんだよね。やっぱり人間っていうのは執念なんだよね。とにかく『行きたい!』っていう思いが強かったから。とにかく僕は人の十倍働いたからね。そういうのは見ていればわかるでしょ。僕はやる時は徹底的にやるからね。半端な思いでやっているとやっぱり半端なものしか出来ないよ」

また、当時ライトパブリシティの先輩だった篠山紀信さんからも「ニューヨークに行くなら絶対にアベドンのところ以外には行くな」と助言をもらっていたという。

「僕はもともと報道写真がやりたかったから、本当はユージン・スミス(※2)なんかが好きだったけどね。でも篠山さんにもアベドンがいいと薦められたこともあって、僕も『アベドンしかない』って思い始めた」

ところで、アメリカに行くにあたって英語のレッスンをしなければならないと思い立った坂田さんだが、そのレッスン方法がおもしろい。

当時ライトパブリシティで働いていた坂田さんは、毎日お昼休みになると一人で帝国ホテルまで出かけて行った。
そして小さな紙に「僕はアメリカに行くので、英語の勉強をしています。時間があったら僕と話をしてもらえませんか?」と英語で書いて、ホテルのロビーにいる暇そうなおばさんに渡した。そして1時間ほど一緒に話してもらったというのだ。

「英会話に行くお金も時間もなかったからね」

坂田さんのフットワークの軽さは、坂田さんの人柄をそのまま表しているような気がした。すごく自然で、肩に力が入っていないような。そして、人一倍努力したことや、他の人にはなかなか真似できないようなことを、話の流れの中であまりにもサラリと話す人だ。
次号(8/9配信)に続く

写真


柳谷杞一郎の写真上達のための100のルール
こんにちは。
柳谷杞一郎です。
「Photo365MAGAZINE」の読者のために、写真上達のためのヒントを毎回少しずつご紹介しています。まずスタートから18回は、『花写真〜上手になるための18のルール』(雷鳥社)という本で一度書いていたことをおさらいしていきます(Photo365MAGAZINE版オリジナル原稿に手直しした部分もあります)。
今回はその7 回目です。
■ Profile ■
柳谷杞一郎(やなぎたにきいちろう)
写真の学校/東京写真学園主宰。
1957年広島県生まれ。広告・出版物の制作ディレクターを経て、88年エスクァイア日本版の月刊化に際し、編集者として参加。90年副編集長。91年にカメラマンに転身。“大人の感性”と“少年の温もり”の混在する写真家として注目を集める。写真集に『Rapa Nui』『X』、著書に「写真でわかる<謎への旅>」シリーズの『イースター島』『マチュピチュ』などがある。
rule7 絞りで表現する

 絞りは、まず「開放」にする。
 続いて「絞り込む」。
 極端にいえばこのふたつだけでいい。
 ピントの合うところと
 合わないところがある。
 これこそ写真表現の一番の面白さなのだ。


カメラは人間の目と違ってひどく不器用である。常に見えているものすべてにピントを合わせるとうことができない。逆にいえばピントが合わない部分があるからこそ、写真はアーティスティックな表現が可能なのである。

某著名カメラマンも、基本的には「開放」か「絞り込む」かのどちらかでしか写真を撮らない、とおっしゃっていた。

開放での写真の魅力はボケの美しさである。一度この魅力にとりつかれると、しばらくここから離れることができなくなる。ある部分にだけピントが合い、残りの部分はボケてしまう。人間の目では見ることのできない世界、写真ならではの世界である。

絞り込む写真の魅力は潔さであろうか。画面のすみずみにまでピントの合っている力強さには心ひかれるものがある。

入門者の絞り選択はまず、この「開放」か「絞り込む」からスタートすればよい。写真の面白さが見えてくるはずだ。


-Kiichiro’s Voice-

誤解をおそれずにいえば、写真という表現方法のポイントは、「ボケる」「ボケない」の組み合わせの妙である。

人間の目はあまりにも優秀で、なにを見てもほぼ「ボケる」ということがない。すごく近くから、とっても遠くまで、ものの見事にピントが合ってしまうのだ。しかしながら、カメラは、不器用な機械だから、それができない。あるところにピントを合わせると、どこかにピントの合わないところが出てくる。すべてにピントを合わせようとして、魚眼レンズを使うと画面の周辺がゆがんでしまう。

とにもかくにも、写真はピントの合うところと合わないところがあるから面白いのである。極端にいえば、写真とはどこからどこまでピントを合わせて、どこからどこまでぼかすかを考えるアートだともいえる。

というわけで、写真を始めてしばらくのうちは「開放」と「絞り込む(最小絞り)」のふたつにひとつを選べばいいのだ。少し写真がわかってくれば開放より1段絞り込む、最小絞りよりも1段開いた方がいいと自然と考えるようになるものだ。
花写真〜上手になるための18のルール〜/監修・写真の学校/東京写真学園
写真を上手に撮るために心掛けるべきことは、たった18のルール。まだカメラを持っていない人から中級者まで、読んで楽しい一眼レフカメラ入門の書。
雷鳥社(2002/03)/1‚155円(税込み)




編 集 後 記
「こんにちは〜」と笑顔で部屋に現れた坂田さんは、私が勝手に予想していたイメージとは全く違った。2倍以上も歳の離れた私たちに対しても隔たりを感じさせない、本当にきさくな人でした。今回の記事では何よりも、そんな坂田さんの飾らない親しみやすい雰囲気を伝えたいと思いました。(Hanaoka Mariko)
問 い 合 わ せ
雷鳥社マガジン
URL: http://www.raichosha.co.jp/mm/
 広告のお問い合わせ: http://www.raichosha.co.jp/mm/ad.html
ご意見・ご感想: photo@raichosha.co.jp
登録の解除をご希望の方は、下記のURLによりお願いします。
  http://www.raichosha.co.jp/mm/photo.html
「Photo 365 MAGAZINE」に掲載された記事の無断転載を禁じます。
Copyright.2004 Raicho-sha