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『朱殷』 求龍堂/2006年5月 3‚990円
■「『朱殷』刊行記念−格闘動物の世界−」
・日時 2006年9月26日(火)〜10月11日(水) ・場所 青山ブックセンター本店内ウォールギャラリーにて
■桑島維Presents フォトマニア・アカデミー『朱殷』−格闘動物の世界−
・日時 10月14日(土) 14:00〜16:00(予定) ・場所 青山ブックセンター本店内・店内A空間にて ・定員 60名様 ・ゲスト フィッシュデザイン ほか
※詳細は決まり次第、お知らせいたします。
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『闘牛島徳之島』 平凡社/2005年5月 3‚990円
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曾祖母が築いた吉原の家
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生まれ育った環境や幼いころの体験が、何かを表現するきっかけやテーマに、何らかの影響を与えることは少なからずある。桑嶋さんの場合は、子供のころの経験から感じたことそのものが、大きく現在の作品に繋がっているようだ。
「僕は、その“生まれ育った環境”というところでは、半ば勝ったような気がします(笑)」
1972年東京生まれ。 桑嶋さんが誕生から幼少までを過ごした実家は、吉原のど真ん中にある。東京の吉原一帯というのは、江戸時代から遊郭として栄え、かつては日本の遊郭の中でも最大規模のものだった。戦後GHQの公娼制度によって遊郭が廃止とされるが、実際にはカフェや料亭などと看板を変え、遊女たちを求めて多くの男たちが通う場として残り続けたという。
「吉原は、僕の母方の実家なんです。僕の曽祖母というのは、なかなかのやり手実業家だったらしいんです。戦後、東京が焼け野原になった時、曾祖母は“ここは私の土地よ〜!”って勝手に決めて、今の新宿や池袋のあたりにも土地を持っていたらしいんですよ(笑)。その中のひとつが、吉原だったわけです」
「曾祖母も、最初は遊女屋、いわゆる風俗店をやっていたらしいんです。今でも、あの辺りには風俗店が150店舗くらいありますけど、戦後の復興期には倍近くあったらしい。それだけ当然競争も激しかったわけです」
「そこで曾祖母は、“なんとかして、そのライバルをお客にすることができないか”って考えた。そこで思いついたのが、食堂だったんです」
「当時の遊女屋というのは、いきなり男女がひとつの部屋へ入って行為に及ぶ、という仕組みではなく、まずは遊女たちを呼び、お酒を飲んで、食事をする。そうやって楽しんだ後に…というような、粋な遊びをしていたわけですね」
「だから、食べ物の需要というのは、吉原には常にあったんだと思います。でも、うちは料亭のようなところではなく、あくまでも “普通の食堂”。その目の付け所がよかったんでしょうね。普通の食堂を作れば、吉原界隈で働く女の人やタクシードライバーなどが食べに来るんです」
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遊女とタクシードライバーに囲まれて
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バブル崩壊で景気が傾く以前まで、桑嶋家の食堂の景気はとてもよく、家には住み込みで働く女性が常に2〜3人いたという。住み込みの女性に加え、お店にやって来る遊女たち。桑嶋さんは生まれた時から、日常的にたくさんの女性たちに囲まれて育ってきた。
「風俗の女性が、よくうちの食堂でお客さんと待ち合わせをしていたんですが、お客さんを待っている間、子供の僕を可愛がってくれましたね」
「吉原の街というのは、なにか外の世界とは切り離されているような、まるで吉原一角が紫禁城みたいな感じです(笑)。だから、吉原のど真ん中に住んでいる子供もすごく少なかった。僕は、さながら紫禁城の中のラストエンペラーって感じでしたね(笑)」
食堂にやってくる客の半分は、遊女屋の女性たち。そして残りの半分は、女を求めてやって来る男たちを乗せた、タクシーの運転手がほとんどだったという。
「最近の風俗店というのは、誰にも顔を見られないようにドア・ツー・ドアで入っていけるけど、昔はタクシーでお店に出入りしている人が結構いたんです。それで、タクシーの運転手さんたちは、お客さんを待つ間、うちの食堂の座敷で時間をつぶしていることが多かったんです」
「タクシーの運転手さんって、お客さんを乗せていろいろなところに行く仕事でしょ。運転手のおっちゃんたちから、色んな場所の話を聞かせてもらうのが楽しくてね。だから、一番最初になりたいと思った職業は“タクシーの運転手さん”でした」
子供の頃から、遊び相手は、もっぱら風俗のお姉ちゃんか、タクシーの運転手さん。そして…。
「ヤクザのおじさん。今にして思えば、なんですけどね。当時は、“大人が着るスーツっていうのは、みんなダブルで縦縞模様が入っているんだ”と思っていました(笑)。コーヒーをビチャビチャとこぼしながら運ぶ僕に、“坊主ありがとう”って言って、おだちんをくれたりしました」
東京・吉原のラストエンペラーは、周りにいるバラエティーに富んだ、個性豊かな大人たちと遊んだり、話を聞いたりしながら、人一倍好奇心旺盛な少年となっていった。
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何でもありなんだ!
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母方の実家は吉原で、商売気質な家系。一方で父方の家系は、元々宮城県の地主で家柄が良く、石巻から仙台へ行くのに、一度も他人の土地を踏まずに行くことができたという。
「親父は、そういう“家柄”みたいなものに対して、変な自信を持っていましたね」
家柄も良く、一流企業に勤務していた父親だけに、桑嶋さんへの教育指導は厳しかったのではないだろうか?
「うちは両親とも、全くの放任主義でしたよ。それに、うちの親父はね、本当に女性が好きでね、家にはめったに帰ってこなかったし(笑)。家族で夕食を食べるでしょ。食べ終わったと思ったら、“じゃあ、帰るか〜”って親父が言うんですよ(笑)。“おいおい、どこへ帰るんだよ〜”って感じですよね(笑)」
「時々、女性から家に電話がかかってきたりもしましたよ。親父が待ち合わせに来ないからって怒っているんです。仕方ないから僕は親父のふりをして、“おい、ちょっとくらい待っとけよ〜”って言っておいて、後で親父にメモを残したりね(笑)」
「母親もちょっと変わっていて、最近家にいないなと思ったら、バイクでツーリングへ、なんてこともありましたよ。バイクが好きでね。僕ね、子供の頃、車は走っている時にずっと“キンコーン、キンコーン”ってチャイムが鳴るものだと思っていたんですよ。スピード出しすぎの時に鳴る車の警告音が、ずっと鳴っていたんです。うちの母親、かなりのスピード狂だったんですよ(笑)」
「そんな両親から受けた影響はといえば、“何でもあり!”っていうことですかね」
「吉原の食堂を作った曾祖母も、変わったばあさんでね。生前から“稼いだお金は一銭も残さないよ”と言っていたらしくて、実際に見事に使いきって亡くなりました(笑)」
「何に使ったかというと、一人でクイーンエリザベス号に乗って世界一周したり、南極へ行ったりしてたんですよ!! 確か、南極へ行った女性としては、世界で2番目だったんじゃないかな。だから、曾祖母はいろんな国のコインを持っていましたよ。“このお金を使っていた国は、今はもうないんだよ”なんて話を聞いたりしながら、子どもながらに“あ〜国ってず〜っとあるものじゃないんだ”って思った記憶があります」
「とにかく、当たり前だと思っている価値観が、次から次へと壊されていくんですよ。吉原という場所にしても、僕の曾祖母にしてもそうですけど、自分の想像を絶する人がいるんだ!って。社会のルールや常識の壁を、ぶち破って押し広げていく人物が、いつも僕の前に現れるんです」
次週(9/18配信)もお楽しみに!!
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